どんな環境の中でも、どんな風なことをされても、子はそれを受け止めないと、乗り越えないと生きてゆくことができないと思う。
子には、目の前の親しかいない。命が芽生えた時の気持ちを少しだけ、思い出して欲しいなぁ。
おばあちゃんの口癖だった「あんたがしたように人様にされるんやで」
取り留めなく書いてしましたが、自分も含めて、イジメたりしないでほしい。何物に対しても。
寒い朝、四条烏丸を南に降りていた。右側から白い杖を持ち足早に交差点を渡る60代の女性が見えた。東西南北に道は広がり、まだ細い通りが幾つも折り合う京都の町。道は、わかりやすいというが辻に入る車道と歩道の段差が、足先ちょうど引っかかってしまうくらいの場所が多い。案の定、彼女もあっという間に足先をふいにとられた。
「この段差、危ないなあ」
私は思わずぼやいていた。その瞬間、彼女は私の腕にかきついた。バス停を探しているらしく、また短い横断歩道と微妙な段差をクリアしなければならない。
「あれ?腕はこんな持ち方で良かったんでしたかあ?」
昔、ヘルパー研修で視覚障害者の介護の講師で教える側があり、とぼけてみたら、彼女はしっかり教えてくれた。彼女達はヘルプしている側に合わせて歩くことで感謝を表している気がする。お互いに合わせて、速度が決まってゆく。私の腕に信頼を寄せて。バス停が見えた、ルートの番号を読み上げる私。その時、バス停にいた若い女性が私に目礼、もう大丈夫。バトンは渡った。もちろん、他人同士である。何だかうれしかった。言葉で仕草で分かり合える人がいることに。気づいて良かった。気持ち、ほんわか温かい。
全くの畑違いの茶房という商いは、過酷でした。まず、お客様を待つということ。いつ、どのような方が、ましてや、わざわざ大通りから離れた場所に何を求めて来られるのかが、気にかかっていました。そして満足して帰っていただきたいと願ったものでした。自分の力を過信して笑顔で接すれば、必ず伝わるなんて思ったりしていました。会話の中で一喜一憂しながら。拒んでいた新聞取材を受けてしまい、自分の描いた路線と違う道を走り出したお店に、振り回され体調を崩してしまったあの頃。
思う通り、自分の考えを放ち仕事をしていた私には、またココロのどこぞに穴が空き壊れてゆく音が聞こえて、自信が無くなり商いをさせて頂くには足りないモノがいっぱいなことを思い知ります。
頑張ろうと踏ん張ろうと思うほど、ダメージは大きくなり。
休んだり開けたり、ワガママなお店になってしまいました。
焦りよりも、申し訳なさが湧き出て来ます。
休みの間は、ひどい自己嫌悪や罪悪感、無気力、辛くて、横になったままの日々。入院。
良くなったり悪くなったりの繰り返しの私に、いろいろな形で寄り添ってくれるお客様方。
ありがとう。
感謝しています。
自分を見つめる方法が。
今。一つの道を決めようと…決まるかもしれません。
「またか・・」
怒りと悲しみとあきらめが渦巻きます。
私の母は妊娠9ヶ月のとき、自分で出血に気づきしばらく様子をみていたら量が増え続けました。祭日だったので、留守番をしていたようです。
1人救急車を呼んで用意していた荷物を持ち、車に乗り込み、かかりつけ医にいったところ、手に負えないと断られ、つぎの病院に辿り着くころには、大量の出血ですべはなかったそうです。
40年経っても、こんなに悲しいことはあるのですね。母の顔も声も抱いてもらった記憶もなく、自分にとってその存在さえなかったのですから。
どうか、自分の身になってシステムを考えて下さい。
そして、この世に生をいただいた子供たちが、小さな幸せを感じられ笑顔がたくさん見られるような毎日を過ごしてほしいと願います。