2009年4月12日日曜日

言葉にして伝えてみた


寒い朝、四条烏丸を南に降りていた。右側から白い杖を持ち足早に交差点を渡る60代の女性が見えた。東西南北に道は広がり、まだ細い通りが幾つも折り合う京都の町。道は、わかりやすいというが辻に入る車道と歩道の段差が、足先ちょうど引っかかってしまうくらいの場所が多い。案の定、彼女もあっという間に足先をふいにとられた。

「この段差、危ないなあ」

私は思わずぼやいていた。その瞬間、彼女は私の腕にかきついた。バス停を探しているらしく、また短い横断歩道と微妙な段差をクリアしなければならない。

「あれ?腕はこんな持ち方で良かったんでしたかあ?」

昔、ヘルパー研修で視覚障害者の介護の講師で教える側があり、とぼけてみたら、彼女はしっかり教えてくれた。彼女達はヘルプしている側に合わせて歩くことで感謝を表している気がする。お互いに合わせて、速度が決まってゆく。私の腕に信頼を寄せて。バス停が見えた、ルートの番号を読み上げる私。その時、バス停にいた若い女性が私に目礼、もう大丈夫。バトンは渡った。もちろん、他人同士である。何だかうれしかった。言葉で仕草で分かり合える人がいることに。気づいて良かった。気持ち、ほんわか温かい。

二年を振り返って

全くの畑違いの茶房という商いは、過酷でした。まず、お客様を待つということ。いつ、どのような方が、ましてや、わざわざ大通りから離れた場所に何を求めて来られるのかが、気にかかっていました。そして満足して帰っていただきたいと願ったものでした。自分の力を過信して笑顔で接すれば、必ず伝わるなんて思ったりしていました。会話の中で一喜一憂しながら。拒んでいた新聞取材を受けてしまい、自分の描いた路線と違う道を走り出したお店に、振り回され体調を崩してしまったあの頃。

 

思う通り、自分の考えを放ち仕事をしていた私には、またココロのどこぞに穴が空き壊れてゆく音が聞こえて、自信が無くなり商いをさせて頂くには足りないモノがいっぱいなことを思い知ります。

 

頑張ろうと踏ん張ろうと思うほど、ダメージは大きくなり。

 

休んだり開けたり、ワガママなお店になってしまいました。

 

焦りよりも、申し訳なさが湧き出て来ます。

 

休みの間は、ひどい自己嫌悪や罪悪感、無気力、辛くて、横になったままの日々。入院。

 

良くなったり悪くなったりの繰り返しの私に、いろいろな形で寄り添ってくれるお客様方。

 

ありがとう。

感謝しています。

自分を見つめる方法が。

今。一つの道を決めようと…決まるかもしれません。

「妊産婦死亡」で思うこと


少し前にこの事件が不幸にも重なり、ニュースをにぎわしたことがありました。

「またか・・」

怒りと悲しみとあきらめが渦巻きます。

 私の母は妊娠9ヶ月のとき、自分で出血に気づきしばらく様子をみていたら量が増え続けました。祭日だったので、留守番をしていたようです。

 1人救急車を呼んで用意していた荷物を持ち、車に乗り込み、かかりつけ医にいったところ、手に負えないと断られ、つぎの病院に辿り着くころには、大量の出血ですべはなかったそうです。

 40年経っても、こんなに悲しいことはあるのですね。母の顔も声も抱いてもらった記憶もなく、自分にとってその存在さえなかったのですから。

 どうか、自分の身になってシステムを考えて下さい。

そして、この世に生をいただいた子供たちが、小さな幸せを感じられ笑顔がたくさん見られるような毎日を過ごしてほしいと願います。

ここにも愛が



殻に閉じこもったまま、ベッド回りのカーテンはぐるりとまわしたまま。話したくない

愛想笑いもイヤ

自分自身を探したい

ひとりにして

 そんな頑なな気持ちがカーテンのそとから、障害を受け入れ、仲良くしている笑いの声で、なんとなく・・自分がひどく甘えてる気持ちがしてきました。

 朝6時半、カーテン全開。朝の空気を入れ換え、輪の中に入りました。

 死と向き合った人たちは生に貪欲です。そして深い慈しみがあります。

 生きてきた流れを笑いにして、力づけてくれます。なんの為の要塞だったんだろ・・ここにも愛がありました。

あなたでよかった


昼間から、胸がざわついてパニックになりそうな予感。薬を頓服でいただいた。顔がこわばる。胸が苦しい。息がしにくい。辛いなあ。堕ちてくよ。ベッドの中、カーテンはぐるり一周。一枚ガラスから見える庭も空も見たくない。どれだけたったかな。少し眠ったみたい。でも今日はバランスが悪い。

 やっぱり、夜また・・。「すみません、薬を。」若いけど光ってる看護師さんが当直だから、安心している私。そっと気にかけてくれて、思わず

「あなたでよかった」

って口からこぼれてた、大変な仕事、昔自分もしてた大好きだった仕事。上手く息抜きして、私たちを見ていて欲しい・・

愛とは人を想い喜びを与えること



テレビが苦手な私に

  朝一番に熱い珈琲を

 飲む私に

  差し入れてくれました。ありがとう。

  夜が少し

 短く感じられそうです。

ちょっぴりぜいたくやけど


陽が早くおちるようになりました。
緑の色も光に当たって複雑な色です。

ちょっぴりぜいたくやけど・・色鉛筆とノートを買いました。

何を書こうか
何を綴ろうか

秋の夜長に、楽しみが増えました。

2009年4月10日金曜日

しあわせと思うこころを育てるために


大きな窓際のそばにいます。静かに時間は流れ、私以外の人お話に夢中です。いつか、あんなふうに障害を認めて乗り越えて本当の笑顔を取り戻したいなあ。

施餓鬼


夏らしい一日を、お手伝いですごさせていただきました。
何もわからない私ですが、行事ごとが始まるまえのおごそかな感じ。緊張感漂う静寂な時間。
日常的には感じられない心の落ち着き。
蓮の生花は、みんな理解しているかのように凛と見えました。
これからも
お手伝いをして少しずつ自分磨きをしたいと思います。

頑張らなくていい。笑えない日もあるから


 彼女は薬を飲みながら、日々を過ごしてます。
 一生飲み続けていくことになりそうとか。
 生まれ育つ中で、どれだけ厳しく辛いことがあったのでしょう。
 でも、それも含めて「今」が在るのだから。
 頑張らなくても、彼女を大切にしてくれるみんなの中で
 うつむいた顔が少しでも前を向けたらいいね。

写経をしてみたい


 京都のお寺で「写経」をさせて下さるという貼り紙を見かけたのは、いつ頃だったのでしょうか。
「お経を写す」そのことが、なんとなく自分の心を落ち着かせ、気持ちを浄めてくれそうな。ただ無心で時を過ごせそうな。そんなイメージがありました。
 「いつかしたいな」
時期を逃していましたが先日、初めてお寺にて体験してきました。
 もっと緊張して字が震えたりするのかと思いましたが、「無心」になるとただ字を書くことだけに気持ちが向かいました。
 坐禅と同じく
「静」の時間は「正」であり「生」「清」「誠」「聖」・・でした。また奥深い心地よい感覚でした。
 初めの一歩は踏み出せたから、機会に触れ繰り返し続けていきたいです。
お世話になりました。

初夏の朝に


 周囲の環境に自分を合わせよう合わせようとして、それが当然だと思い込んで過ごしていたあの頃。 伝えたい言葉はいくつもあったはずなのに、飲み込んでしまう癖。 どうでもいいことはさらりと話せるのに、言わなきゃいけない・・この機会を逃したら・・と、思いつつ「良い人」を選んでしまう。

 「私が悪かったんだ」

 「私がいなきゃどうなるの」

 「私がちゃんとしなきゃ」

 「私が・・」

 「私が・・」

 結果は

 「私」が悪いと判断できるまで、「議論」も「ぶつかりあい」もした訳でなく、「私」がいなくてもどこも普通にまわるし、「私」がちゃんとできなくても、それぞれが自分のできることは必ずある。

 そんなこんなのやっかいな心の場所を、また違う「攻撃」を持った場所が攻め立てる・・

 「あほやな~」

 「今頃、気づいたの??」

 「あなたなど、別に必要ないのよ」

 「攻撃性」の矢は自分に突き刺さる。

 「自分」が歪んでゆく。

 「哀しみ」さえ、感じられなくなる。

 そうして、闇の底に堕ちて行った。

 心の中の「みずがめ」がいっぱいになる前に、何とか自分なりの方法を見つけて、水をくみ出してほしいと思う。

 私も今、いろいろなことを経験しながら考えている。

 ストレスのない生活なんてあり得ない。 自分と向き合い、自分の感情のバランスを客観的に評価し、自然の美しさや人の素晴らしさを感じることのできる毎日を送りたいのが夢だな・・

 「夏」が近づくと、「もう社会生活は無理かもしれない」と医師から告げられたことを思い出す。

 強く思うこと・・ 堕ちてしまっても、そこで疲れ果てるまで居たら、また何かが見えてくるかも知れないと思っている。

 風が気持ちいいと感じられる今日の朝に・・・ ふと感じたこと。思い出してみたこと。

漠然とした…


「うつ状態」「パニックアタック」「PTSD」など社会的によく知られるようになったのは、マスコミやネットの情報が入りやすくなったことにもよる。ただ、「言葉の一人歩き」でイメージが先行するのはどうかと感じるのは、私だけかなぁ。店の開店時、新聞社の方が「古民家喫茶」という取り組みについて取材に何度か足を運んでくださった。断っているうちに何だか悪いような気持ちになって、引き受けてしまった。結局、お店のことより私自身のことが、そして出ないはずだった写真までが大きく写りがっかりした。引き受けた以上、それは自分にも責任はあるわけで仕方ないが。
 「精神的に参っていた女性が、それを克服し第2の人生を!」と、受けとめたお客様方に幾度となく質問を受けた。同じ様な質問を、1日に平均10回位は…。忙しさとその対応に歪みが出始め、ある朝動けなくなった。
 店を開けることと、自分の精神面のことは全く別のことで、それを楯にしたくなかった思いもある。でも、マスコミの恐ろしさを知らなかったのも、そこから始まったつながりもあるから、今となれば勉強になったと思える。
 「パニック」は前兆がある。何だかさわさわしたり違和感があったり。苦しかったり。
 でも、私の「漠然とした不安感、恐怖心、無用感」は…突発的にやってくる。調子が良いから、もう薬なんて必要ないと、間違った判断を幾度繰り返し何度襲われたことだろう。
 「うつやパニックを障害と認めて向き合って付き合うこと」
 私に与えられた一生の課題なのだと思う。
 イメージを作らず
 私を見て欲しい。
 素の私を。
 精神面に障害があっても笑える。はしゃぐ。楽しめる。
 そんな方々は
 近くにいるかもしれない。
 なんとなく、伝えたくて…。

回想についての寛容的な思索


 古民家という場所は、どこか懐かしく、落ち着く気持ちになる。
 最近では、グループホームの職員の方から「回想法としてこのお店が活用できるのでは?」とお話をいただいた。 実のところ、私は回想法という言葉に興味を感じるものの、イメージしかわかっていない。
 認知機能低下ある方が、その状況に陥ってなかった昔(例えば生活や環境など)に近い場所で過ごすことにより、身体的精神的に懐かしさや思い出を振り返り、心身ともに活動性が上がる・・という感じ。
 本来は、個別と集団に別れていて昔のことを本人が語ることにより、また語れる状況に言葉を引き出すことで、本人の「自信」を思い出させるとのこと。
 イメージだけでは、人によりブレが大きいためもう少し勉強してみよう。
 懐かしさや思い出の「記憶」とは学術的にはどう定義されるのか。
 さてさて、難しくなってきた。
 「記憶」については、Dr.Kから説明を受けて納得いくまで議論しようっと。

劇団「但馬しあわせ一座★」ができるまで

「認知症しあわせ計画」との出会い
 今から約2年前、私が毎日の仕事の中で、訪問や相談業務で地域の方々と関わっている頃のことです。「認知症」について、
 ①どれだけの正しい知識や理解力を持っているのか ②受診や相談を行う医療機関とのネットワークができているか
 そんな問題点や不安を抱えていました。専門職の私がそんな状況で、もちろん地域においても同じ様子が見え隠れしていました。
 ①「正しい知識を理解し共有すること」→認知症に対しての「早期発見」「早期対応」につながります。
 ②「専門医療機関との連携(ネットワーク)のしくみをつくること」→地域のかかりつけ医と専門科の連携を促し対象者の心身状況をより的確に把握できます。また家族や地域が最も恐れている「周辺症状」発症時や家族の緊急事態の時に相談やアドバイスを受けることができます。
 「但馬」において勉強会や講義がないものだろうか? それを専門職である私達が学び地域に伝えることはできないのだろうか?
 そんな思いの中、旧朝来町が地域を中心に「認知症への取り組み」をされていること、「認知症しあわせ計画」という講演があることを知りました。私が不安に思ったり、地域に伝えていきたいという願いと重なる部分があり、さっそく講演をされている当時の大植病院院長・柿木達也先生に直接お会いし、お話を伺うことにしたのでした。主旨や思いを伝えると即答で、地域に来てお話をして下さることが決定!!
持論「ネットワーク作りには、理屈を抜いて、軽いフットワークで(^^)飛び込もう」
 ひとつのつながりは、池に石をポトンと落とすように、様々な形につながっていきます。 それから柿木先生の講演がある度に、許す限り、何度も参加して聴き、学び始めていました。参加するたびに、新しい情報があり、また「認知症」への理解がより深まっていった気がします。また、自分が理解しているということは、相談業務においても確固たる自信をもって関われるようになってきます。そして、「但馬で地域ケアに関わっているケアスタッフのみなさん」と話をする機会が増え始め、「一度、柿木先生の住んで居られる古民家(現 咲良乃実)で集まってお茶会しよう!」となった訳です。
 その時に作った案内状が別紙で、改めて見ても楽しい企画だったと思います。 そこで「地域に伝えよう!」というムードが盛り上がり・・「但馬しあわせ一座★」の前身が「咲良乃実」の前身で、生まれた訳でございます♪
 ひとつのつながりは、池に石をポトンと落とすように、様々な形につながっていきます。 それから柿木先生の講演がある度に、許す限り、何度も参加して聴き、学び始めていました。参加するたびに、新しい情報があり、また「認知症」への理解がより深まっていった気がします。また、自分が理解しているということは、相談業務においても確固たる自信をもって関われるようになってきます。そして、「但馬で地域ケアに関わっているケアスタッフのみなさん」と話をする機会が増え始め、「一度、柿木先生の住んで居られる古民家(現 咲良乃実)で集まってお茶会しよう!」となった訳です。
 その時に作った案内状が別紙で、改めて見ても楽しい企画だったと思います。 そこで「地域に伝えよう!」というムードが盛り上がり・・「但馬しあわせ一座★」の前身が「咲良乃実」の前身で、生まれた訳でございます♪

劇団「但馬しあわせ一座★」ができるまでPartⅡ

 古民家でのお茶会は、
 ケースを通じて知り合ったり・・・ 講演会で出会ったり・・・ 人から人へのつながりで・・・ 医師、行政職員、ケアマネ、看護師、施設職員などなど。職種を超えた、様々な「熱い(濃い?)」集まりになりました。
 抹茶をいただきながら、お菓子をいただきながら、何故かイカの一夜干しを囲炉裏端で焼きながら???
 いろいろな話に花を咲かせ 楽しく充実したひと時でした。
 そこで、劇団結成について具体的に話し合いが煮詰まってきました!!
 数日後、「たたき台を作ってみるよ」と話した団員から届いた「認知症story」。早い(^^;)早すぎる(^O^;)
 さて、これにどう「肉付け」していこうか・・・「色づけ」していこうか・・・・。とりあえずバトンタッチした私が、「にわか脚本家」になってみよう!!!。「できなかったら、また次に誰かに渡せば、代わってくれるから♪」
こんなのりで「しあわせ一座★」の脚本を作り始めたのでした。

認知症Story タイトル(仮)“どうする?認知症”

<あらすじ>
 中年夫婦と、同居の夫の母親(まだらボケ)家族の家族模様を表現します。
 妻の美恵子は、潔癖症で大変きれい好きな性格。夫の一男は、ごくごく平凡なサラリーマンで、家庭のことは一切美恵子に任せています。夫には3歳年下のはる子という妹がいて、彼女は何かと兄夫婦に干渉し、母(正子)が認知症であることを認めたがらない。美恵子は母の日々の行動にノイローゼになりそうになるが、夫は無関心、小姑は「母をボケ扱いにする」と美恵子を攻撃します。また、美恵子は体裁が悪いと思い、近所にも姑の認知症のことを隠そうとし、孤軍奮闘の毎日に、限界を感じるようになりました。
 ある日、はる子が「お姉さんがそんなに言うんだったら・・・」と、自分の知り合いの医者(脳外科)に診てもらうように手続きをし、美恵子・正子・はる子の3人で受診しますが、医師は、はる子の言い分を全面的に信用し、正子の受け答えの様子(そのときはきちんと答える)から、加齢による物忘れであると診断しました。医師の診断に、はる子は鼻息をいっそう荒くし、美恵子を攻め立てます。
 美恵子は、強い孤独感に打ちひしがれ、この家を出ようか、自殺しようか等と自分を追い詰めていきます。
 正子は、自分の事で娘と嫁とが争い、また、自分でも自分がおかしいのを感じて、一体どうしたらいいかわからず、不穏な日々を過ごしています。
 今にも破滅しそうな自分の家庭に、今まで無関心だった一男がどうにかしなくては・・・と、福祉事務所に相談に行きます。そこで、精神科の受診を勧められ、一男・美恵子・正子・はる子の4人で精神科を受診するに至りますが、主治医は正子を脳血管性認知症と診断し、4人の立場にそれぞれアドバイスをします。それを機会に、お互いが認め合うようになり、近所の援助も受けながら、正子の在宅生活が穏やかに送られるようになりました。

*以上昨夜、思いついたストーリーを書いてみました。内容は膨らませるところは膨らまし、涙や笑いをとりながら、落ち着くところに落ち着く内容にしたいと思います。

劇団「但馬しあわせ一座★」ができるまでPartⅢ



 さてさて・・・・、パソコンに向かい脚本作りが始まりました。今まで、業務で関わった多くのケースを振り返り、それぞれの対象者の方やご家族の言葉や思いをつなげながら・・・・、「たたき台」を元に、形を作っていました。

 「一座★」の団員は、それぞれ専門職でありながら、実は「芸達者」というか、「得意分野」を持っており・・・、事務局が決まり、大道具係が決まり、それを巧みにフォローする団員、そして、驚くべき女優がいて!!!あっ、男優も。
 仕上がった脚本は、団員で声を出し読み上げ、見直し、意見交換し、校正されていく。場面場面にあわせて道具を作る、書く。

 初めての公演が決まった私たちは、毎日の仕事をこなしながら、休日に練習をしました。手探り、夢探り、みんな同じ方向を目指し、素敵な笑顔で(内心は焦りでいっぱい?)ガンバッテいくのでした(・0・)
 「ぶっつけ本番!!! 土壇場になって最高の演技、演出を表現できた「しあわせ一座★」
 あ~ みんな病み付きになったかも・・・・・・

劇団「但馬しあわせ一座★」ができるまでPartⅣ


 いくつかの公演依頼をこなし、観客席から笑いや涙?をいただき、どんなことを伝えられたかなと思います。
 私は、出演者が集まり最後の台詞を言う場面が、とても好きです。これは、私が「追っかけ」!をした『認知症しあわせ計画』の講演から拝借した言葉たちです。

 「認知症になったことは残念なことです」 「でも不幸なことではありません」 「認知症は脳の病気です」 「どう生きていくかが大切です」 「完治はしないけれど、どうか、その人を見つめてください」 「周りが正しく知ることで、その人はその人らしく過ごすことができます」 「明日は自分の身に起こることかもしれないと、真剣に考えてみてください」 「そして、自分自身が「しあわせ」と感じられる時間を持って、毎日を過ごしてください。」

 伝えているようで、観てもらっているようで、観客席からいろいろなパワーをもらっているような気がします。
 これからも、それぞれ自分たちの仕事をこなしながら、「但馬しあわせ一座★」は進化をしながら、ボチボチ歩んでいくことでしょう♪
 いつか、どこかのまちで、会いましょう・・・って思っています。

2009年4月9日木曜日

劇団「但馬しあわせ一座★」のこと


  「認知症しあわせ計画」という講演を、聴かれたことはありますか?。朝来市にある大植病院の元院長・柿木先生が、但馬の地域ケアスタッフを始め多くの人に向けて贈ったメッセージです。
 「認知症は脳の病気です。なりたくてなったわけではありません。勿論、ご家族のせいでもありません。やさしく接してあげましょう。そして、恐れることはありません。明るく楽しく、いきいきと暮らしましょう。」
 この思いを基に、ケースを通じて知り合った専門職たちが、立場を超え、但馬に認知症についての正しい理解や予防・介護への心構えや対応を、広く伝えたいという思いで「但馬しあわせ一座★」を立ち上げました。「人」を救うのは「人」であり、「愛」であり、「一人でないという事実」を、劇を通じて多くの方々にわかっていただきたいなぁと思っています。あなたの大好きな街に、笑いと涙と愛を一緒にしっかりと抱きしめたい、熱いハートの劇団です。
 人が人にかかわって、家庭が、地域が、社会が形成されます。その中で起こる苦しみや悲しみも、さまざまな人たちとのかかわりで和らげることができると思います。 その苦しみや悲しみに遭遇することで、私たちは人間としての本当のやさしさに触れることができるのかもしれません。生きていくうえで避けられない「老い」を、正面から見つめようとする一座の思いに、ぜひ皆さんも触れてください。